ムラカミhateblo

村上春樹・読書会のハテブロです♪

第三回『女のいない男たち』 Side-M

第二回、神保町「ねじまき鳥と火曜日の女たち」での記事が未アップですが、第三回、千駄ヶ谷「女のいない男たち」記事をagesよりお届けします。

 

これまでは、読書会→街歩きという流れでしたが、今回は、街歩き→読書会。

ぶらり千駄ヶ谷

千駄ヶ谷と言えば、ファンの間では、村上春樹氏がジャズ喫茶「ピーターキャット」をやっていた町としてお馴染みです。ピーターキャット跡地は今はワインバルとなっています。

f:id:murakamihateblo:20140419130108j:plain

他にも少し足を伸ばすとフランス革命と同じ頃に作られたという富士塚があります。この富士塚、登ると富士山に登ったのと同じご利益がある、ということで江戸時代の町の人の富士山信仰ぶりが偲ばれます。「富士山から溶岩を持ってきて山を作ったのだから、実質富士山」という合理的なんだかやけくそなんだかの理屈はともかく「信仰する」という誠実、敬虔な行為に含まれる虚構性を感じたり感じなかったり。(このくだり読書会の本編と関わります)

f:id:murakamihateblo:20140419171500j:plain

登ってみると、なにやら熱心な表情で向き合っている少年たちの姿がビルの中に見えてきました。

f:id:murakamihateblo:20140419132213j:plain

日本将棋会館です。「三月のライオン」の零くんみたいな利発そうなメガネボーイズが出入りしてました。

富士塚のある神社境内には将棋が強くなるという礼拝堂に将棋の駒の形の絵馬がたくさん奉納されている場所もあり(中には将棋の駒に「サッカー選手になりたい」というイノベーティブな決意をしてる子もいたりして日本の未来を明るく感じました)将棋に興味のある方にはおすすめの散策エリアだと思います。

 

その後「幻冬舎はここにあったのか~」というサプライズもあったりしつつ(本好きだと版元を見つけると嬉しいものです)千駄ヶ谷散策を終え、腰を落ち着けて読書会開始です。

 

いちばん早い読書会、たぶん

今回はその前日に待望の新刊短編集発売、ということで「発売開始直後のいちばん早い読書会、たぶん」としての開催でした。 

女のいない男たち

女のいない男たち

 

 古い作品だと、参加者それぞれがその作品と過ごした時間の長さがマチマチになりますが、発表直後であれば、揃う。そういう中での読み解きの面白さがあるのかもしれないね、と。

 

この作品を一言でいうと? (冒頭陳述)

4回目にしてほんのりこの読書会のスタイルが見えてきつつありますが、会の口火は読んできたそれぞれの人がまず今回の作品をどう捉えたか、を言い合うところから。 

ages:「理想、指針を失くした世界をそれでも生き続けるということ」

あっきー :「宝物」

なかたに :「初恋」

 

ニーチェが「神は死んだ」と言ってからこちらの世界をどう生きるのかというのがポストモダン思想で、村上春樹さんの作品はポストモダンだと思っているのですが、今作もそうした例えば「経済的成長がある、明日は今日より必ずいい日」という信頼が持てない世界をそれでも生きていくということがどういうことなのか、が書かれているようにワタクシ感じた次第。

そんな中、生まれた時から低成長世代のあっきーさんからは「そもそも自分にはその喪失体験がない」という話が出ます。

失ったかもしれない、でも手元には半分こした消しゴムが残っている。失っていても、失われていなくても依然として宝物であるものについて書かれている、と。

たしかに~

が、この話が、若い頃の宝物を後生大事にしていることの純粋さとそれで周りが見えなくなってしまうことの駄目さ≒「こじらせ男子」という話へ展開していきます。

 

こじらせ男子

今回の短編集に収録されている「独立器官」に宝物(ファンタジック、ファナティックな恋愛)を大事にしてたらその人からひどく裏切られて餓死する人がでてきます。

「恋は盲目」とよく言いますが、恋すると周囲の事物はもちろんひどい場合には肝心の相手さえも見えなくなることがままあります。

この話は読書会ではしそびれたのですが、先日ラーメン屋さんで隣の人の話を聞くともなく聞いていたら「課長さんがすごくかっこいいんだけど、左手の薬指に指輪してるんだよね、、、でも最近は近寄ってくる女の人除けで指輪してる人もいるって話だから私にもチャンスあるよね」的なことを言ってる友だちがいて、、、みたいな話が聞こえてきました。

。。。盲目、というか自分に都合のいいように世界を見がちですよね。恋って綺麗だけど危険が危ない!

本短編集にもこうした恋する対象を見失った強すぎる恋心(「恋煩い」)の顛末が様々に描写されているように思いました。

 

それでもロマンティックは止まらない

例えこじらせたとしても例えば「独立器官」では

しかし同時に、自らの存在をゼロに近づけてしまいたいと望むほど深く一人の女性を――それがどんな女性であったかはさておき――彼が愛せたということを僕はある意味、羨ましく思わなくもない。

などと結果はさておきほとんど忘我の境地にあること自体は肯定的に捉えてもいます。「恋なんて所詮、、、」と上から目線で達観してみせた所で、というのはありますよね。きっと。

 

しかしロマンティックは蜃気楼かもしれない

だけど、どのような熱情もある時、不意に醒めてしまうことがあります。

本短編集に収録されている「シェエラザード」にも

あるときにはとんでもなく輝かしく絶対的に思えたものが、それを得るためには一切を捨ててもいいとまで思えたものが、しばらく時間が経つと、あるいは少し角度を変えて眺めると、驚くほど色褪せて見えることがある。私の眼はいったい何を見ていたんだろうと、わけがわからなくなってしまう。

というくだりがあります。

当人にとっては大変な熱情が、別の視点から見るとなんだかよくわからないものに見えてしまうこと。

それは例えば「回転木馬のデッドヒート」という状況もそのように言えると思うし、物理の(そう、物理でした)角速度ωで定義される運動※が、波のように続いていくのかと思いきや同じ場所をぐるぐるしてた的な状況にも似ているかも知れません。

※こちらのページでいろいろ思い出しました。わかりやすいページをありがとうございます。

http://www.wakariyasui.sakura.ne.jp/b2/53/5331tannsinn.html

 

三角関係構造

村上作品には二人の男性と一人の女性、という構図が目立つという話も出ました。

女性の法的なパートナーでない男性と女性のいわゆる不倫構造の中で表立った嫉妬があまり描かれない。どころか「女のいない男たち」では

世界でいちばん孤独な男は、やはり彼女の夫に違いない。僕はその席を彼のために残しておく。(中略)彼は水夫なのだろうか?それとも水夫に対抗するものなのだろうか?もし後者であるとすれば、彼は僕の同胞の一人ということになる。もし前者であるとすれば……それでもやはり僕は彼に同情する。彼のために何かができればいいのだが、と思う。

と気遣ってみせるのです。

が、個人的にはこの妙な上から目線からくる態度は表立って嫉妬を見せない素直でない自意識過剰な態度だと思います。本来嫉妬してしまう対象を気遣ってみせることで自分を優位に立たせる態度だと。

こういうところで他人や自分を意識的にあるいは無意識的に誤魔化してしまうことが事態を悪化させることは往々にあるわけで。

一方で素直でいることはそう簡単なことでもないことも知っているのですが。

 

ネグレクトという暴力

「ねじまき鳥と火曜日の女たち」で

「あなたが殺したのよ」と妻は言った。

(中略)

でも僕はあの猫をいじめたこともないし、毎日ちゃんと飯をやってた。僕が飯をやってたんだよ。とくに好きじゃないからって、僕が猫を殺したことにはならない。そんなことを言い出したら、世界の大部分の人間は僕が殺したことになる」

「あなたってそういう人なのよ」と妻は言った。「いつもいつもそうよ。自分では手を下さずにいろんなものを殺していくのよ」

というくだりがあります。ぼんやりしがちな僕なんかは、ぎくりとしてしまいます。

「女のいない男たち」でも

そのようにして、彼女はこれまで僕がつきあった女性たちの中で、自死の道を選んだ三人目となった。考えてみれば、いや、むろんいちいち考えるまでもなく、ずいぶんな致死率だ。僕にはとても信じられない。だいたい僕はそれほど数多くの女性と交際してきたわけではないのだから。なぜ彼女たちが若くして、そんなに次々に自らの命を絶っていくのか、絶っていかなくてはならなかったのか、まったく理解できない。それが僕のせいでなければいいと思う。そこに僕が関与していなければいいと思う。あるいは彼女たちが僕を目撃者として、記録者として想定したりしていなければいいと思う。心から本当にそう思う。

とまぁ、清々しいまでの知らんぷりぶりです。

ほとんどの場合(ご存じのように)、彼女を連れて行ってしまうのは奸智に長けた水夫たちだ。彼らは言葉巧みに女たちを誘い、マルセイユだか象牙海岸だかに手早く連れ去る。それに対して僕らにはほとんどなすすべはない。あるいは水夫たちと関わりなく、彼女たちは自分の命を絶つかもしれない。それについても、僕らにはほとんどなすすべはない。水夫たちにさえなすすべはない。

水夫は世界の「暴力」の象徴だと思っています。

水夫に彼女が拐かされてしまった、、、と悲嘆にくれる主人公ですが、彼女の夫にしてみれば主人公こそが水夫です。

直接的な見える「暴力」を振るうだけでなく、世界の中で誰も誰かに「暴力」を振るっている可能性。(たとえば、熱帯雨林プランテーション栽培された植物で生産された製品を購入することだって広義の「暴力」と言えるかもしれません。そういうことを「ねじまき鳥~」で非難されているのだろうな、と思うのです)

 

「電話」(タグトピック)

前回読んだ「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の終わりでは

ビールを半分ばかり飲んだところで電話のベルが鳴りはじめた。

「出てくれよ」と僕は居間の暗闇に向かってどなった。

「嫌よ。あなたが出てよ」と妻が言った。

「出たくない。」と僕は言った。

答えるもののないままに電話のベルは鳴りつづけた。ベルは暗闇の中に浮かんだちりを鈍くかきまわしていた。僕も妻もそのあいだ一言も口をきかなかった。僕はビールを飲み、妻は声を立てずに泣きつづけていた。僕は二十回までベルの音を数えていたが、それからあとはあきらめて鳴るにまかせた。いつまでもそんなものを数えつづけるわけにはいかないのだ。

と電話の無視し続けていたのだけど今作は冒頭で毅然と電話を取ります。

夜中の一時過ぎに電話がかかってきて、僕を起こす。真夜中の電話のベルはいつも荒々しい。誰かが凶暴な金具を使って世界を壊そうとしているみたいに聞こえる。人類の一員として僕はそれをやめさせなくてはならない。だからベッドを出て居間に行き、受話器を取る。

電話のコールはサイレンです。どこかで誰かが悲鳴をあげているのです。悲鳴に対して、もう、僕たちは、やれやれと傍観を決め込むわけにはいかないのでしょう、たぶん。

 *タグトピックとは: 

主催者なかたにが、春樹理解のために是非やろうと思ってた春樹の各作品間での共通点などを探る試みだ! 

いずれ関連性MAPのようなものをつくりそこから解き明かしができないか目論んでいる。

 

なお、今回の記事は男性であるagesによる稿Side-Mです。あっきーさんの手に拠ってSide-Fが書かれるかも知れませんし、書かれないかも知れません。 

次回予告 

次回は「木野」に挑む予定です。木野に相応しい町はどこだろう。神田なんてよいかもしれない。