第0回 『パン屋再襲撃』
いっこうに人が集まる気配がないので(笑)主催者2人だけでプレ開始しようとした第0回。 予想外にもう1人、赤ちゃん入れて2人来てくれたので男女4名で開始と華やかなスタートになりました♪
0回目のテーマは『パン屋再襲撃』
短編集『パン屋再襲撃』の表題作に挑みました。
◎この作品のテーマとは?読書会前に一言ずつ挙げてもらった)
「資本主義」(主催者S)
「呪い」 (主催者N)
*もう一方は保留。
◎『パン屋再襲撃』をこう読みました。
*わたし(主催者N)の解釈。
「 変節」と「呪い」についての話だと思う。
若い頃に、「わたし」は「相棒」と一緒に飢えを満たすためにパン屋を襲撃する。
妻に「なぜ(その時)働かなかったの?」と問われた際「とにかく働きたくなかったからさ」と答える。
これはテーゼだと思う。主張というか。
「働かない」が資本主義に対するアンチなのか、私はそこまで考えなかったけど、とにかくモラトリアムというか「働いてなんかなるものか」という「明確な」主張なんだと。
働きたくないから、パン屋を襲う。
そういうパンクな主張、小さな革命なんだと思う。
そこで事件がある。
村上春樹らしい、とてもユニークな展開。
襲われたくなかったパン屋の主人が「自分の好きなワーグナーを聞いてくれたらパンをあげよう」と提案を持ちかけてくる。
「わたし」たちは戸惑うが結局、パンの対価に音楽を聞くことを了承する。
これは、当初「労働」を断固拒否していた「わたし」にとっては”本当は犯してはいけなかった「妥協」”だとぼくは読みました。
「変節」と言ってもいいか。
*1 「変節」はスプートニクですみれが口にする言葉 (タグトピックにて後述)
これが「皿洗いをしなさい」とかであれば主人公たちは無慈悲にパン屋を縛り上げて襲撃に成功していたはず、と作品にある。
なまじ労働とは言えず、いやでもない「音楽を聴くこと」が提案されたため「わたし」たちは混乱してそれを受け入れてしまった。
音楽を聞くことは労働とは言えない。
でも、対価ではある。
労働だったかどうか、は論が分かれるところだが、
とにかく重要なのは「わたし」にとってそれは変節だった、ということだと思う。
それが原因でその後相棒とはうまくいかなくなるし、作品に直に「呪い」と書いてあるがそれが呪いとなって、現在の「わたし」とその妻に圧倒的で象徴的な空腹をもたらしてしまう。
一番大事な、しかもモラトリアム的な主張を変えてしまったこと(変節)が呪いとなって今の自分に暗い影を落としている、というのがこの『パン屋再襲撃』の骨子なんだと思う。
*2 呪いの解消=田崎つくるの巡礼 (※後述)
ぼくはこの前半まででこの作品のテーマはほぼ完結していると思う。
後半は、この「呪い」の呪縛を解消するために再度パン屋を襲うというユニークな展開になる。パン屋が見つからなくて結局マクドナルドを襲うことになったり、妻が散弾銃を隠し持ってたり、ファニーな展開がいくつかあるけど、基本的にはユーモアのある展開だなという感じで、作品の主眼は前半に置かれていると思う。
*マクドナルド=資本主義の象徴? (※後述)
若い頃の主張に対する「妥協」は「変節」であり、「呪い」として後々まで残り、現在の自分のあり方に影を落とすことになる。
この恐ろしさ(とはまではこの作品では言えないけど)、とても奇妙なんだけど一定の納得感がある奇妙さ、こそがこの作品の奥に低く流れているテーマなんだというのがぼくの結論です。
初期に読んだときの感想にほど近いけど、改めて読み読書会で話して、田崎つくるとの関連性を見つけたり、海底火山の比喩に光を当てられたことで解釈が深まった気がしました!
一旦、ココまでがメインの解釈。
あと話し合ったこと、「関連性」という観点でのメモなども残します。
◎結論、「再襲撃」はうまく行ったのか?
エンディングについても議論が生まれました。
「呪い」の解消を目指しパン屋を探す「わたし」と妻だが夜中にパン屋は空いてないという至極まっとうな理由によりパン屋が見つからず、マクドナルドを襲うことに。
マックってパン屋か?(笑)
というあたりが春樹のユーモアだと思うんだけど。
重要な面に目をむけるとこれも「妥協」と言えてしまう。
”パン屋”襲撃はまたしても失敗か? 呪いは継続するのか?
読書会の一旦の答えとしては、パン屋 再襲撃は「一応の成功」と結論づけました。
海底火山のたとえでいうと、襲撃のあとで「透明度が下がり見えなくなった」状態になっている。 象徴的な空腹の例え、危険度の象徴であった火山が見えなくなっているからには「危機は去った」のだろう。
ただ、去ったのであってなくなったわけじゃない。
またやってくるかもしれない。
呪いは継続している。
その一定、薄気味悪さが残ったまま作品は終わっているし、そこがうまいところだと個人的には思った。
(一気に、現実的な観点になるが)
やはり、この手の展開で「完全に解消されました!」だとやはり深みが生まれないと思う。 この作品はこうでしか終われなかったんだろう。
また、
「完全に解決してない」と読み手に思わせる原因として、「パン屋は見つかっていない、襲ったのはマクドナルドである」が影響しているあたり、後半のマックが単なるユーモアだけでもなく、伏線として使える村上春樹のストーリー構築の非凡さを感じてしまう。
◎海底火山の比喩
個人的には、この比喩、以前読んだときも、今回読み直したときも、まったくピンと来てなかった。 読書会でSさんの一言があり、理解の光が指した。
(読書会っておもしろい、と思った・笑)
海底火山は「危機」の象徴である。
火山というからには当たり前だが、噴火する。
いつかはわからない。 明日かもしれない。
そういう恐怖の例えだ。
「特殊な飢餓」と等価交換できる表現で出てくる「海底火山」だが、
パン屋を襲う前には「水が透明すぎて距離感がつかめない」存在だ。
これは、火山という「危機」との距離感がつかめていない。
ここでいう危機とは変節による「呪い」に他ならない。
いつ、この呪いが現実に力を持ち自分たちに害を与えるか?が見えていないということ。危機がそこにある、という状態と言える。
*3 壁一枚 の比喩
◎主催者Sさんの解釈
後半でマクドナルドが出るのは偶然ではない
マクドナルドは「資本主義的なもの」の象徴として登場している。
音楽を聞くこと、が仕事になってしまうという「陳腐さ」
フレンチドレッシングの脱臭剤炒め とは「順列組み合わせ」で並べ替えて成立してしまうという記号的な陳腐さ。
空腹を満たすために飛び出すが、資本主義の象徴たるマクドナルドしかなくそこを襲うという皮肉。 しかし飢えは満たされてしまう。
空腹を満たすために誰かを襲う必要があるという現代の悲劇性。
*ちなみに、作品で出てくるパンはキリスト教でいうパンであろう(聖体拝領の)
◎参加者Gさんの解釈
「何が自分を満たすのか」
昔はシンプルだったが、現代では食欲が満ちただけでは十分ではない。
作品でもビックマックを30個も奪ってしまう。飢えを満たすためには不要な数。
根本的な満たされていない何かがある。
ほかの欲とすり替えが行われ複雑になっている現代。
◎参加者?Mちゃん(0歳)の解釈
どうでもいいが、午前のプールはこわかった(゚Д゚)
◎タグトピック
*タグトピックとは: 主催者なかたにが、春樹理解のために是非やろうと思ってた春樹の各作品間での共通点などを探る試みだ!
いずれ関連性MAPのようなものをつくりそこから解き明かしができないか目論んでいる。
*1 「変節」
今回出た妥協を「変節」と呼んだが、「変節」はスプートニクですみれが口にした言葉。 ジャックケルアックの小説に出るような格好をして社会からはみ出していたすみれが、ミュウに会い社会的に”まともな”格好、生活を始めたことを、自ら「こういのって一種のヘンセツかしら?」と恥じるシーンがある。
反社会的なモラトリアムから社会的な参画(資本主義的な社会に巻き込まれること)にネガティブなイメージがある?
春樹は資本主義(や、そうした特定の思想)に対して批判的な立場をとっている、とも思われたくないのではないか。単に中立でいたいのでは?というGさんの意見も出た。
*2 『パン屋』の呪いと『田崎』の巡礼
『パン屋』でいう過去に「働かない」ということを曲げてしまった変節が呪いになっており、10年以上たった現在に解消しようというプロットは、田崎つくるの名古屋で友人4人からバッサリと「鉈で断ち切られるように」関係性を断ち切られた心の傷を埋めるために「巡礼」を行うことに似ている。
『パン屋』では妻に促されるが、田崎つくるは木元沙羅に巡礼を促される点も共通。
「内側では、血はまだ静かに流れ続けているかもしれない。そんな風に考えたことはない?」 _『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』 p103
*3 「壁一枚」
海底火山の話が出たときに自然に思い出された事として、春樹の初期作品によく出てくる「壁一枚の先には・・・」というイメージが思い出されました。
(ぼんやりしてるけど)壁一枚隔てるとそこは死者の世界(ダンスダンスダンスにそんな一節があったような)、井戸の比喩も共通していると思う。
だから、阪神淡路大震災に春樹は共鳴したのだと思うし地震後に地震をテーマとして暑かった作品がいくつか出てるのだと思う。
*この話割と盛り上がり、次には「神の子ども達は」を読みたいね、ということにつながりました。
読書会っておもしろい。
written なかたに
以上。
経堂のタイ料理ソンタナで行いました。
2014/01/13(祝)