ムラカミhateblo

村上春樹・読書会のハテブロです♪

第一回『神の子どもたちはみな踊る』

村上春樹・読書会。

堂々の第一回、西荻窪でスタートです!

 

Facebookでこの読書会を公開設定にしていたことが功を奏し、なんと検索から見つけて参加してくれた初参加にして強力な仲間「なつみかんさん」が参加して第一回を開催。

 

四人で『神の子どもたちはみな踊る』表題作に挑みました。 

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

 

 

なぜ『神の子どもたちはみな踊る』にしたか?

前回の「パン屋再襲撃」で、春樹の特定の思想や体制に対してのスタンスがテーマに上がり、ごとさんより「(実は)資本主義に対してもことさら批判的でもなく、そう見られるのを嫌っているところがあるのでは?」という話が出て。

宗教観についても話があがったので宗教に向かい合っているように見える本作がテーマとなりました。

(マジメにやってるなぁ、この読書会。。w)

 

この作品のテーマとは? (読書会前の各自の意見)

 

Agesさん:「再生」

なつみかん:「自分を受け入れる」

なかたに :「神との距離(距離感)」

ごとさん :「解放」 (または悟り)

 

あらすじ

「完璧な避妊」をしていたにも関わらず生まれた大崎善也は、父がいないことで「お方さま」(母が傾倒してる宗教でいう「神」)の子どもとされ育つ。 ある時、父親(の可能性がある男)に似た男を見かけ追跡するが、夜の野球場で見失う。

父は結局消えてしまうが、その追跡と出会ったことを通してカタルシスが得られ、これまでこだわっていたことが氷解。夜の野球場でひとり踊り自分の中の「森」と向き合う。  

 

 

神の子どもたちはみな踊る』をこう読みました。

  *今回はなかたに主観はありますが、みんなで話した内容をまとめてます。

 

自分と向き合い受け入れることを通じての「解放」の物語だと思います。

 

父がいないこと、母がうら若くエキセントリックでそんな母に性的な憧れを持っていることなど、自分の中に「邪(よこしま)」な部分を感じ抱えていた善也が、父(=神)との瞬時の邂逅という奇蹟・秘蹟を経て、自分の内面と向き合い、受け入れ自分を「解放」できるようになる。 

 

そういう「解放」「成長」「再生」の物語。

 *なので、読み味というか読後感はスカっとしているというかハッピーエンドに近い珍しい話だと思った。

 

この話の「転」はどこか?(何だったか?) 

起承転結でいう「転」はどこにあったのか?と考え、話しました。

 

①最初:なやんでるし、破滅的な二日酔い(混乱)の中から起き上がる

②何かの「転」があり、

③最後:問題が解決されている。 
(または、解決ではないが昇華され、問題が問題ではなくなる)

 

ものすごく単純化するとこういうプロットなので、②で何が善也の状況を好転させたのか?(実際にはたいしたことは起こってない)

を考えてみました。

 

父との邂逅

 

もちろん答えは父を「見かけ、追跡し、見失う一連」にある。

父を見かけ後をつけるが結局は、(まさに)神秘的に消えてしまう父に会うことはできなかった。

 

ただ、暗い闇の中で路地のようなところ(*1)を通り抜け、野球場に抜けたという一連に「質の変化」を思わせる何かが隠されているのだと思う。

追跡し、見失い、自分がより深い暗闇の中に放ったのだ、という自覚が善也を解放している(悟り)。人の内部から起こる変化。

 

顕現と秘跡

ーそこにはひとつの顕現があり、秘跡があったのだ。誉むべきかな (p106・善也のことば)

 

「路地」(タグトピック)

「路地」は『ねじまき鳥と火曜日の女たち』にも登場する。

ねじまきの路地は「かつでは通路だったが入口と出口が封鎖された場所。

見捨てられた場所、往来から取り残された場所であり、「どこにも出口がない」象徴として使われる。 またその条件から路地は特別な場所であり、ここを「くぐり抜ける」ことで精神世界の奥を通り抜けるようなプロットになっているのではないか。

 *タグトピックとは: 

主催者なかたにが、春樹理解のために是非やろうと思ってた春樹の各作品間での共通点などを探る試みだ! 

いずれ関連性MAPのようなものをつくりそこから解き明かしができないか目論んでいる。

 

 

森の比喩(*2)

 

p109 ー様々な動物がだまし絵のように森の中にひそんでいた。中には見たこともないような恐ろしげな獣も混じっていた。(中略)でも恐怖はなかった。だってそれは僕自身の中にある森なのだ。僕自身をかたちづくっている森なのだ。僕自身が抱えている獣なのだ。

 

森=自己の内面であり、それと向き合うことで闇をくぐり抜けている。

 

 『海辺のカフカ』 古い兵隊のいる森。 

カフカにはとくに似たプロットで、森=内面という語りがある。

もっとさまざまな作品に共通している、春樹の根幹を成すテーマだと思う。

 

テーマとしての「解放」「自己受容」

ココに、みんなが最初のテーマに上げた「解放」「悟り」「再生」「自己の受け入れ」が集約されている。

 

善也の中にも邪なものがあり、相容れないものがあったが、ありのままを受け入れるという成長(復活)の物語。

善と悪性の共存。 いわゆる「清濁併呑」での浄化。

 

ココでの解決は、「問題の解決」ではなく「解放」である。

 

ー最初にこだわっていた問題について、「全体がどうでもいい、と思えるときがある」

という表現がある。

 

最初にこだわっていた「父の発見」(父の不在という問題)について、父親に会うということは最初善也にとっては命を左右するような問題だった。 だが、それが(父の追跡と路地の通過と父の霧消によって)「どうでもいいこと」に昇華される、ことが注目すべきところだと思いました。

 

「メタ解決」というか。

問題は解決していないが、成長?することによって自分を受け入れ、その事自体が「どうでもよくなる」という「救い」がある。

 

 *確かに。

  社会人やってても問題の解決ってだいたいそうだよね、って話をしました。

  問題が解決すること、は稀でそれをもっと上の視点から眺められるようになるのが成長。的な。

 

 

========================================結論(ぽいもの)

 

村上春樹の「宗教」へのスタンス

一部の特定宗教や新興宗教にたいしてはネガティブ、忌み嫌っている。「やれやれ」というスタンス。(とくに初期)

ただ、もっと大きな意味での大宗教に対する「信仰」に対しての賛美はあるのではないか?

 

父と母(親)に対してのスタンス (春樹自身の家庭観)

 

父母の関係。 

今回の善也については、父が不在。 母も母なる存在としては不在。

 

*初期にはよく「スポイル」(台無しにする)という言葉が使われ、親が親の責任を果たさないことで子は「スポイル」されると書かれていて、春樹はそこに大きな怒りを持っているように思う。

(ココ、何かあるとなかたには思ってて掘っていきたい)

 

  *実際、本人はどうなんだっけ? (村上春樹自身の背景)

父は国語教師? (両親とも?)祖父が僧侶で父はかなり厳格だった。

親との関係は、1Q84では強い。

初期は親のことはまったく登場しなかったのが中期から変化が見られる。

  *蜂蜜パイのラストシーンの「変化」はすごい。

 

 

==========以下、比喩や象徴、ほか作品との関連性について。

 

主人公の名前:善也=ヨシュア

「善也」はヨシュア、つまりイエスキリストの暗喩(というか体現)であり、

同時に、「善きもの」として期待されている。

 

ヨシュア新約聖書で言うイエスキリストのことであり、「神は救う」という意味である。 http://www.dr-luke.org/Characters/Joshua.html

 

善也が神の顕現である、とかを言いたいのではなく。宗教的な傾倒がある母から神の子として強烈な期待、まなざしで母から見られているという点が重要か。

 

「山手線」の比喩   

作品中、1回しか出てこないが善也の姓はじつは「大崎」。

登場人物の田端さんとともに山手線の駅名である。

 

山手線で終点として使われる「田端」と、始点としての「大崎」おなじ輪の中にある。 始点と終点の比喩だ。

*なつみかんさんの指摘により発見。

これ・・・「すごい」と思いました。なつみかんがさんいなかったら発見できなかったし、なんか個人的には「名刺代わりの一発(ホームラン)」と思い感動してました!

 

 

円形は再生のシンボル?(なつみかんさん追記) 

田端さんと大崎の山手線=円形は再生のシンボルとして使われているのかも。

ピッチャーズマウンドも円ではないけれど、始点と終点が終わり、と考えれば円の変形なのかも? (春樹さんは甘いもの嫌いだけど唯一ドーナツが好きで、形が良いとも言ってますね)

 

 *マウンドというよりは野球場全体、ダイアモンド(ホームベースから1~3塁~ホームベース)を円のたとえとしているのかもですね。(なかたに)

 

序盤の「非現実」の暗喩

物語の冒頭は、破滅的な二日酔いから起き上がる様子から。

これはそのまま、そこから始まる「再生/復活」を暗示している。

 

・時計がなくなっている→「時間」が失われている。

・眼鏡がなくなっている→「距離」が失われている。

 →「非現実」

 

*物語の序盤から「非現実」モードにあることの象徴か。

長編ではもっと噛み砕いて非現実(夢)への導入があるところを短編ならではの略か

 

関連:「眠り」でも時計がなくなった状態でおきる様子が似ている。

 

また同じ本の連作「かえるくん東京を救う」で最後爆発して失われてしまう「かえるくん」の復活、としてつながっているのではないか。 

*善也も長い手足を不器用にふって踊るさまから彼女に「かえるくん」と呼ばれている。

 

◎p82(冒頭)の 物干し竿

ふるいものほし竿を新品に交換してくれる、というもの続く「再生/復活」の暗示と言える。 「20年前と同じ値段」→善也の生まれた20年前を示唆?

 

◎なぜ「野球場」だったのか?

「外野フライ」を取れるようになりたかった、のが善也の幼少期の悩みだった。

典型的な父性への憧れか。 父親の不在に対する喪失感。

その流れで案内される『野球場」では? (父はいないんだけど)

 

◎ラストダンス (ラストのほうのダンス)  (*3)

ダンス、大きなもの、地面の律動や自然の音に身をまかせるという行為か。(大地の音に身を任せる、という表現が実際にある) 原始的なダンスは宗教と親密。

 

神の子どもたちはみな踊るのです。

3 ダンス

『ダンスダンスダンス』 音楽に合わせて精一杯うまく踊るんだよ。

スプートニクの恋人』でも宗教的、祝祭的な音楽との出会いとその後のカタルシスが描かれている。

 

 

ー以上。

 

西荻窪のカフェ「三人灯(サンニントウ)」で4人で行いました。

 

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適度な静かさ/ほの明るい感じ/落ちつく空間 、、すべてが揃っていて最高の読書会カフェでした!

 

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次回は本の街・神保町から、『ねじまき鳥と火曜日の女たち』に挑む予定です~!