第二回:『ねじまき鳥と火曜日の女たち』
前回”検索からの来訪者”ことなつみかんさんを加えても非常に楽しく、なんというか高度な思考のやりとりを実現することができ、なんとなく軌道に乗ってきた感のある村上春樹読書会♪
今回も1人新しいメンバーとして幅の広い文学少女アッキーを加え、5人という過去最大メンバーで第二回を開催です!
なんとなく街歩きとセットになってきているこの読書会。
今回は「本の街」を歩こうということで神保町で開催。 お昼間で太陽がさんさんと入ってくる雰囲気のよいハワイアンなカフェMuuMuuDinerで、短編『ねじまき鳥と火曜日の女たち』に挑みました。
*初めて表題作じゃないものに挑むので、まあこうなるよね。
*プレ開催のときに挑んだ『パン屋』の巻末に収められているのが今回の挑戦作『ねじまき鳥』です。
『ねじまき鳥と火曜日の女たち』を選んだのは
名前の通り、長編『ねじまき鳥クロニクル』の元になった作品。
ずっと続けている短編の読み解きを”助走”として、そろそろ長編の読み解きに羽ばたこうとする我々のステップになれば、という想いもあって選びました。
なつみかんさんイチオシの『眠り』をやろうか、という話もあったのですが今回はこちらに。眠りもいつかやろう。メモメモφ(.. )
この作品のテーマとは? (読書会前の各自の意見)
ages:「喪失」
あき:「死角」
なかたに:「致命的な死角」
なつみかん:「無意識的な罪(歴史)と向き合う」
ごとさん:「喪失」
を初期の理解として各人テーマにあげました。
5人がなんとなく3つに分かれた感じでしょうか。なつみさんのが深くて興味深いです。
あらすじ
失業中の「僕」は聞いたことのない声の女からの電話を受け取る。一度切り、その後妻から「詩を書く仕事」を持ちかけられ、”路地”にいなくなった猫を探すよう言われる。その後、再度女からかかってきた電話ではセクシャルな誘いを受けるが僕は取り合わない。女は僕を知っているという。(あなたの頭の中のどこかに致命的な欠陥があるとは思わないの?)
猫を探しに出た僕は古い路地を巡り、羽ばたこうとする鳥の像や犬のいなくなった犬小屋、古い家と新しい家の混在した路地を歩く。サングラスをかけた女子高生に出会い、指が6本ある女の話と、「死の塊」についてのイメージを聞くが結局猫は見つからない。(僕は猫のはっきりした形も思い出せない、ことに気付く) 家に帰ると妻は泣く。「あながた猫を見殺しにしたのよ。自分では手をくださずいろんなものを見殺しにしていくのよ」 再度電話のベルが鳴るが20回までベルを数えたところで、僕はベルを数える事をやめる。 いつまでもそんなものを数えているわけにはいかないのだ。
王道?の 猫探し話です。モチーフとしてのねじまき鳥が短編の中でなおさら色濃く象徴的に登場するのが印象的でした。
・猫の喪失 →たいして探してもないけど一応探す →結局見つからず帰ってくると妻が泣く。
前回に続き、雑に全体をまとめるとこんな流れと言えます。今回もとくにたいしたことは起こっていない。にも関わらず巻末の暗澹たる終わり方。 やはりこのゆるやかなストーリーのどこかに「事件」があったと見るのが妥当かと考えました。
電話のベル
ひとつの事件は「電話のベル」にあったと思います。
電話のベルはサイレンであり警報。
アラームである電話のベルを無視して出なかった事はおそらく失敗で、ここでは妻のSOSが届かなかったことを象徴しているのではないか。
無関心は暴力。 僕がやれやれ、という態度で適当に済ませている事はイコール、いろんなものを見殺しにしている。 (妻が僕に言った「猫はあなたが見殺しにしたのよ)
知らない声の女
Hな誘いの電話をかけてくる謎の女ですが、これも間違いなく妻だと思います。「僕」はこの声を聞いたことがない、と思っているのだけどそれは当てにならない。 僕の頭の中には”致命的な死角”があるからです。
「僕」は笠原メイの家で目をつむった際に、猫の姿形も正確に思い出せないというシーンがあります。 これは「僕」の人間関係への関わり方に致命的な欠陥があり、人とうまく関われていない、愛情を持って接しているはずの猫のことも妻の事も、実はよく理解していないという欠陥についての話。
*実は一緒に暮らしている身近な人についても表面的な理解に留まっていてその人の「本当」をぼくらは実は何も理解していないんじゃないか、という”不気味さ”という点では私は吉田修一の『パレード』を思い返しました。
妻が声をかえて電話でセクシャルな誘いをしてくる、ということは妻の中に抑圧された性への意識があり、その救いというか安直に言うと「誘い」を僕に向けているのだがそれを妻だと気付けず最終的に電話を切ったりベルを無視してしまっているのではないか、と思いました。
妻のセクシャルな誘いを断る夫・・という単純な話ではなく。
性的な部分も含めて人は人だと思うのですが、そういう部分はタブーになっていて日常ではあまり表出してこない、そういう月の裏側のような部分も含めた人間全部を理解する力、理解しようとする意志がこの僕には欠けている?のかと今のところ読んでいます。
路地への迷い込み
この作品はとくに精密に、美しく”路地”について書かれている本だと思う。
路地は正確に路地とも言えない。 かつては道であったがあるとき入り口が塞がれ、呼応して出口も塞がれたことで入口も出口もない、打ち捨てられた土地となっている。
(この表現自体がなんと孤独で象徴的なことか!)
*路地がどういう状態にあったかテーブルで再現する面々(笑)
路地はそのまま「僕」の精神世界を表していると思う。
そこには入口もなく出口もない。誰も入ってこれない。ココに僕の「致命的な死角」というものが存在し、ここで猫は失われてしまった。
印象的なのは妻もその路地で猫を見つけた、と聞いて僕がビックリする箇所。僕にとって路地は自分のためにひっそりと残された場所、妻には隠していたつもりの囲地だったはずがそこに妻も迷い込んでいることに驚く。 妻は僕が思っているよりもずっと自分の闇、死角についても理解をしているということなんじゃないだろうか。
猫とは何か?
各作品によく登場する猫、そしていつも失われている猫。
猫が何の象徴なのか、そういえばまだ答えを持っていない気がします。ワタナベノボルと名付けられた今回の猫はカギしっぽを持っているそうで、カギしっぽの猫とは幸せの象徴なのだそうです。 やはり僕にとって「良きもの」なのだろう。
妻と僕をつなぐものであり、ふたりが(一応)共通して愛しているものとして、月並みですが妻と僕をつなぐ”愛”のようなもの?なのかなと思いました。 失われると非常に困るもの、探すことがテーマに成りうる大切なもの、「あなたが見殺しにした」と妻が泣く対象、、も一旦”愛”であると置くとちょっと腑に落ちます。 (ここは私見だし、私見としてもまだ”保留”な答えです)
ねじまき鳥とは何か?
ねじまき鳥は世界のねじを巻いている鳥。彼がねじを巻く事で僕(と妻)の世界も現実的に回っていたのだと思いますが、このねじまき鳥も今僕や猫のねじを巻いていない。
そして世界がうまく回っていない。
また、なつみかんさんは「ねじまき鳥を資本主義側の象徴と捉えてみると・・」と感想で書いていました。 「ネジを巻く」ってそいういえば資本主義的ですよね。チャップリンの映画のような。主人公も法律業界から失業しているし、再び現実的でマッチョな世界の論理から外れている存在と言えるかもしれないです。
▼ねじまき鳥はどんな形か?について身振りを交えて議論する面々(笑
結論。 (とはいえ未完なこの話)
結局、猫がいなくなってしまったのだがそれは僕の精神に致命的な死角があり、その精神の象徴たる路地の中でいなくなっている。 妻も指摘したようにきっと「僕のせい」で猫はいなくなってしまった。または見殺しにされてしまった。
僕は知らないところで多くのものを見殺しにしている。 ひどく疲れて不幸に見える妻もまた、「まさに今」失われようとしている存在だ。
妻は姿を変え声を変え、僕に助けを求め電話のベルを鳴らす。が主人公は電話を取らない。20回までベルの音を数えるが20回をすぎたところで数える事もやめてしまう。
いつまでもそんなものを数えつづけるわけにはいかないのだ。
この結末はポジティブかネガティブか?
最後に、この結末はポジかネガか?を話し合いました。
まず出た話として、この『ねじまき鳥と火曜日の女たち』は後の『クロニクル』へと続く序章的短編なので、やはり完結していないだろうという意見。
その上で、「数えることはやめた」というのは明確で割り切った意志を感じ、ここから次の場所へ進もうという意志の表れとしてスタートを切ったと見た人もいました。
逆にやはり電話のベルには出なかったのでネガであろうという意見も多かったです。
またベルを「無視」したので、電話を受ける(ポジ)でも明確に断ち切る(ネガ)でもなく、単に「無関心」を決め込むという最も救いのない危険な選択肢を取ってしまったのではないかという意見も出しました。ガンジーが言った「好きの反対は嫌いではなく、無関心である」という例えを共有しました。
路地(タグトピック)
前回の『神の子どもたちはみな踊る』でも路地が出てきたが、今回はカギ括弧つきの「路地」として明確な象徴として登場している。とくに強い夏の陽射しのもと、葉の影が落ちるシーンを描写しつつ入っていく路地へのシーンは「路地=自己の精神世界」に迷い込んでいく構造を他と比べてもとびきり印象強く、美しく描ききった作品だと個人的に感じています。(p204)
「肝臓のような色のソファ」 が出てくるのも身体的な内側への示唆。内蔵=身体の中にある迷宮。
路地の側には古い家と新しい家が混在している。古い記憶と新しい記憶の混在。とりわけ古い記憶が、今もそこに眠っているという象徴。 少年時代の記憶をぶちまけたみたいな庭。(記憶が貯蔵されている、というのは『世界の終わり(とハードボイルドワンダーランド)』の図書館を彷彿とさせる)
死とのつながり
結局、この僕の中にある「致命的な死角」というのは先天的なものなのか、後天的なものなのかという議論をしました。 『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』でも脳の構造が特殊であるため精神世界の中に特殊な『壁』を持っている主人公が出てきますし、村上春樹の根源的なテーマだと思うのですが、なぜ僕は(春樹は)これほど宿命的な呪いを持たなければいけなかったのか。(先天的だとすると可哀想。)
それに対しての答えにはならないのですが、「死とのつながり」が関係するのでは?とみんなと話していてふと思いました。 初期作品を中心にいろんなところで、(壁一枚を隔てて)自分は死とつながっている」という感覚があると感じます。死とつながっている、というのをどういうことか掴みかねていたのですが、「人はいつか死ぬ」「終わりがある」ということを前提に生きることを真面目に捉えたときの矛盾、虚無感、が人生観に色濃く影を落としているのではないか?と話しました。
笠原メイ(女子高生)がする「死の塊」の話もそれにつながっている。
死のコアである部分がすべてに関わっている、それをむき出していきたいというある種グロテスクな欲求。
逆にそれを無視して生きる気楽な生き方をどこか春樹は軽蔑ししつつ羨んでいて、マッチョな現実的な生き方とし、「やれやれ」と思ってしまう自分の非現実の考え方と対比しているのではないか。
*哲学で言うハイデガーの「頽落(たいらく)」
指が6本の女(タグトピック)
笠原メイが指が6本ある女の子の話をする。あるいはメイ自体がその人であるかと思われる。短編の中では割と意味が見いだしにくいが、『色彩』などにも出てくるよく出るモチーフ。 6本目の指はいつも切られてしまう、5本指の秩序のために切られる、無自覚に切ってしまったもの、ではないか?
火曜日の女
火曜 =火(マルス)の意味か?
現実と戦う女性。マッチョな現実側?に属している。 センチネル(歩哨)
(どういう文脈で出てきたか忘れてしまったので、メモ・・)
議論後の「この話のテーマ」
今回は、事前(読書会の前)と事後(話した後)の両方で上げてもらいました。
なかたに:「呪い」(←「致命的な死角」)
ages :「現代社会が喪失したもの〜その死角について〜」(←喪失)
あき :「他社のつながり」(←死角)
ごとさん:「欠損」 (←喪失)
なつみかん:「無理解」(←無意識的な罪と向き合う)
いかがでしょう? 結構変わった人もいたり、ブレない人もいたり^^
興味深い取り組みでした
以上です!
すみません、書くまでに時間が経ってしまい鮮烈な記憶が薄まったのかうまく書けなかった気もします。
でも今回は今までで最長かな、軽く4時間ほどは話しまして昼ごはん食べてから話して終わったときには日が傾くような時間でした。 後半のどろっとした話の密度もすごかったし、とても驚きのあるような濃密な時間を過ごす事ができました。
お店はココ! 神保町<ムウムウダイナー>
お店にある天井裏で読んでました♪
高度な思考交換を終え糖分を補給する女子たち
(アッキー読書会へようこそ!)
次回は、春樹ゆかりの街千駄ヶ谷で。前日に出たばかりとなる新刊『女のいない男たち』を読む予定です!