第四回 『木野』
agesさんとほぼふたりで始めた当読書会ですが今回で4回目!
0回も含めると5回目で、5回も続けば立派な活動かなと思い、ゼロから立ち上げたことを考えるとちょっとした感慨があります。
さて、第四回は久しぶりに全員集合か!と思われましたがごとさんが都合でお休み。
4人で前回に引き続き新刊より『木野』に挑みました。
「名前」の意味
冒頭で私が気になっていたことを上げてみました。
家福(kafuku)・木樽(kitaru)・渡会(Tokai)、羽原(Habara)、木野(Kino)・・
今回の短編では実に、ユニークで意味深そうな名前の登場人物が多く登場します。
しかし、どれをとっても「これか」という意味が見いだせません。
家福はカフカを暗示している?(agesさん)という意見も出ました。
個人的にはやはり「禍福はあざなえる縄のごとし」を連想しました。
木野はKino。 英語のKinetec(キネテック)、ギリシャ語の「動く」(κίνηση) から来ていて中盤で木野が四国に、福岡に、と巡礼的な移動をすることと関連しているのでは?という興味深い意見も出ました。
深読みし過ぎかもしれません。
あ、いろんな意見があるのでいいのですが、個人的にはあまり暗号的な示唆は意図されていないのかなと思っています。ただ個々に意味や狙いはある気がして、今回は見つけきれませんでしたが考えていきたいな、と。
冒頭陳述:この作品を一言で言うと?
今回も最初に「テーマ」を話しました。
ages:「しなければならない事をしないことの罪」
なかたに:「致命的な欠陥」 (ねじまき鳥から引き継いでいます)
アッキー:「居場所」
なつみかん:「責任」
どうでしょうか。
割とバラけている印象もあります。 各人スポットを当てている位置が(作中のどの時系列か、についても)違うようにも見え興味深いです。
「両義的」
このワードはとても鍵だと思います。
この話で、読書会が(または私が)もっとも発見があったのはこの点でした。
村上春樹の小説は言うまでもなく文学なので、ティピカルな「正義」や「邪悪なもの」という登場はない、とは思うのですが。 やはり理解にあたって「これは悪いやつだ」「これはいいやつや」と自然に自分の中で色付けをしているところがあります
この話でいえば、「蛇」は邪悪なもの。 「神田」は聖なるもの。といった具合に。
その流れで言うと、謎の女は凶寄り? 猫は「善」(幸運) 、暴力的な二人組は悪側であろう。
・・・しかし、本当にそうか?
読書会で意見を話し合ううちにそう単純ではないのでは?と議論が深まりました。
猫は木野のバーに幸運を運んできた、とあるのでおそらく幸運の象徴である。
ほかの作品でも一定して猫の不在=歯車の狂い始め というプロットは存在するのでそれは間違いないと思う。
猫がいなくなり蛇が現れ、バーに不吉な影が落ちるとあるので多くの人は「蛇=邪」には違和感がないだろう。
ただ伯母が言うように「蛇は元来、両義的な存在」である。
それは邪でもあり、ときには聖でもある。
というよりも、聖と邪、自体、人にとって実は移ろいやすく交換可能なのではないか。
そう思ったのには、「神田」の存在と「ドアのノック」の違和感があった。
タブーだった「絵はがきに手紙(文章)を書く」を破ったことで何者かに見つかり捕捉されノックが響く。ドアのノックが響くシーンには、「(邪なものに)見つかった!!」というスリルがある。
(啓示的な禁忌を破り、得体のしれない何者かに掴まってしまう、というプロットは極めてギリシャ神話的なくだりだと思う。)
ー黄泉の国からエウリュディケを連れ帰るオルフェウス
このノックは邪だろうか?
前述の「タブーを破り見つかる」という文脈から「邪」の印象を受けていたが、よく読んでいくとこのノックはいろんなものから逃げていた木野に追いつき、何かとつながり、世界と向かい合うことを求める「温かさ」を感じる。
木野は逃げていたが、逃げた先に解決はない。
このノックは木野にとっては「避けたいもの」であると同時に「救い」でもある。
やはり、聖か邪かという二律背反的な話ではない。
そう。両義的なんだと思うのだ。
タグトピック:「ノック」=1Q84天吾と父のノック
・・・深い考察はまだできていないのですが、追いかけてくるノックというモチーフは一緒だなと思いました。前述のように木野を追うノックは邪悪な印象だけではない一面を感じました。
なぜ「絵はがき」を出してはいけなかったのか
前述の神話の例えで言えば、オルフェウスが黄泉の国を振り返ったようにココにはタブーがあった。それがこの『木野』で言えば「伯母さんに絵はがきを出したこと」であった。
味方っぽい伯母に「絵はがきを出す」って、あんまり悪いことしている感じしないですよね。それがタブーになっている理由はどこにあるのか?
これについても興味深い話し合いができました。
(アッキー)木野は追われている立場であって「危険」にさらされている。絵はがきに差出人や手紙を書いてしまうと届いた先の伯母にまで危険が及ぶかもしれない。 そういうところを考えない身勝手なところ、に対する罰なのではないか?
(agesさん)※ちょっと違ってたらスミマセン。
絵はがきを書くことで日常的な社会活動をしてしまっている。(景色だけの絵はがきに自分の文章を”付け加える”というのは、”付加価値をつける”行為であり資本主義的な経済活動の象徴では?) そこには本来向き合わなければならない弔い的な行為を「雑事にかまける」ことで誤摩化してしまっているというニュアンスがあり、そこに邪悪が入り込むのではないか?
などいくつか意見が出て興味深かったです。
この答えもみんなで話し合っている間に解けてきたという興奮がありました♪
やはり、ノック=邪と捉えると答えが出ない気がします。
・木野は逃げていました。(神田に勧められて)
・これは、不貞をはたらいた妻に対して向き合うことができず、傷つくべきときに傷つくことなく、自分の心と向き合うことから逃げる行為です。
・逃げ切りたいなら木野は徹底して逃げるべきでした。そこでは自分の心のうちはやはり隠す必要がありました。
・ただやはり孤独な行為です。一見くだらないように見えるビルの中での資本主義的な(?)経済活動の中でさえも交わされている日常的なコミュニケーションの温かさをホテルの窓から見ていた木野は急に耐えられなくなる。
・そこでついに手紙に自分の心のうちを書いてしまいます。
・宛先以外を書いてはいけなかった、のではなく。自分の心情・内情をひとに伝達すること(本来の手紙の役割といえます)がココではいけなかったのだと思う。
・いや、結局「いけなかった」とか「よかった」ということではないのですが、自分から逃げようとしていた木野は人とつながることを放棄しきれず、自分の心を捨て去ることに失敗し、結果として再び自分の心に「つかまる」ことになるのだと思う。
(つまり、ノックがそこに現れる)
・・どうでしょう。
最初読んだ際にはあまり考えてなかった結論(つまり、ある程度飛躍した結論)なのですが結構「これじゃないかな」という確信を持っています。
最後のページのノックについての記述。
「こんこん、こんこん、そしてまたこんこん。目を背けず、私をまっすぐ見なさい、誰かが耳元でそう囁いた。これがおまえの心の姿なのだから」
Topic:「月曜」と「木曜」
ここで関連して。
木野が神田に絵はがきを出してと言われていた日は「月曜と木曜」でした。
ことさら博識でこういった記号的なヒントに敏感なagesさんも「なぜ月と木なのか・・」と悩んでいました。
agesさんとなつみかんさんは「ねじまき鳥と火曜日の女」でも曜日に注目しており。
火曜日→「火」→「マルス」 火星のマーズに通じる灼熱感を、泰然自若としたモラトリアム的な主人公に対して、資本主義的な活発な経済活動を彷彿とする「火」の対比として捉えていました。
背景には陰陽五行的な発想もあるとのこと。
ただ五行には「月」はないので月・木の意味が捉えにくいようです。
ただ何気なく検索して貼ったこの図(ハリマ薬局??)でいうと左上に「月」があり、やはどちらかというと「木」側にあるのでしょうか。
ちなみに帰ってから再読していた私、気付いちゃいました。
木野が最後に禁忌を破った 最後の絵はがきをいつ出したか?
丁寧に読まないとわからないと思うのですが、あれは「火曜日」に出しています。
「その前日は月曜日だったので、木野はホテルの売店で熊本城の絵葉書を買い求め、そこにボールペンで伯母の名前と住所を書いた。(中略)それから彼は衝動的に葉書を裏返し、空白の部分に伯母にあてた文章を書いた。」(p255)
なんと。
買った時点ですでに約束の月曜日は過ぎていました。
そしてやはり「火」 マルスの曜日です。火の持つ灼熱のイメージも前述のように関係があるのかもですが再び陰陽五行に目を戻すと、五行それぞれが臓器を担う中で「火」が司っているものに心臓、「心」の一文字があることも意味があるように思えてきます。
BAR『木野』の存在
春樹自身ジャズバーのオーナーだった のですが、このバーの重厚で渋い感じが『木野』に春樹ファンの人気を集めそうなシブいお洒落な印象を与えています。
*扉絵。言わずもがなですが木野のイメージです。
読書会で話していて、ある時「このBAR木野の存在は、人間木野の精神構造を比喩しているのでは?」というアイディアが出ました。
▼絵を描いてみたのですが・・
妻の不倫に傷ついた木野が開いたBAR木野。
そんなことがあってはある程度仕方なかったとも感じるのですが、このBAR木野は木野にとって体のいい”逃げ場所”として機能していることもわかります。
バーというところは何人もの客がやってきますが、みな来てはすぐに去っていく場所。一過性であり行きずりの人しか訪れない場所です。(客、Temporaryというメモ)
これは過去作品でも登場した主人公の精神世界をよく表していて、みなが入口から入っていき暫く留まったとしても結局出口から出て行ってしまう、そして誰も自分の世界には残っていかない・・という春樹の独特の世界観そのものを表していると感じました。
強烈だな、と思ったのはこの絵の中心。
「木野というBARの中に、木野だけが居る」という構図なんです。
これは強烈に孤独。 強烈な自己閉塞感を感じました。
人はそこに一時的に留まることはできるが踏み込むことはできない。
そこは神田に言わせれば「誰にでも心地のよい場所」となってしまっている。
別のメモ(下図)に 愛=差別 とメモ書きがあるのですが(恥ずかしいメモだな・・w) 愛って差別じゃないですか。 誰かをほかの誰かより大切に思う、っていう。
BAR木野は誰しもに均等に接する、その分誰をも愛することができない木野の状況を物語っているのだと思いました。
メモに「AFTER」とあるのは妻の不倫後という意味です。
で、「BEFORE」がこちら。
妻の不倫以前、妻と結婚していた頃です。
ここに愛があったのであれば家庭という枠の中に木野と妻がしっかりと結びついて存在していたはずです。
しかし、木野は仕事が忙しかったためか出張が多く家を空けて転々としており家には”不在”があった。
不在があるので妻が浮気をする。
ここはベタな展開ですよね。
「間男」っていう言葉を初めて打ち込んだ気がしますw
こう考えると、妻からひどい仕打ちを受けており同情を受けるべき木野にもやはり妻に対しての不義はあったように感じます。
神田が言ったように「正しからざることをしないでいるだけでは足りず」「正しいことを”しなかった”から重大な問題が生じた」ということ。 (p248)
前回作から継続して言うなら妻に「あなたはいろんなものを見殺しにしているのよ」と妻に責められるような「僕」の中にある「致命的な欠陥」が今回も影を落としていると感じました。
「神田」の存在
最後に神田とは何だったのか? 本作で直接的に書かれているように神田とはBARの前にある柳の木です。
”両義的”の議論に戻ると、神田は一見「善」そのものに見えるが、ノックが「救い」だと捉えるとそこから遠ざけようと助言を続けていた神田がそこまで善きものとは見えなくなってきます。
だからといって悪ではまあないのですが。
神田はバーの柳でありBAR『木野』を守るものです。
そのBARは、木野の逃げ場であり木野自身が妻や自分と向き合うことから逃げ込んだ場所。
絵葉書を出すことを止めようとする神田は木野を傷つけるものから守り逃がそうとする純粋善意がある。
神田にとってそれは有り難い「赦し」ではあるかもしれない。
ただ自分と向き合うことが本当の「救い」であるなら本当に木野を救うのは神田ではなく自分を追ってきた厳しくも自分と向き合うことを求める「ノック」である。
向き合うこともつらいこと。
やはり、ノックや神田のどちらが善、どちらが邪と割り切れるような単純な問題ではない。
「救い」と「闘い」すべては交換可能であり「両義的」 なのだ。
以上。
*とても深い話だった。
感想がいつもより散文的になってしまった。
謎の女や暴力的なその相棒、闖入者である2人組など触れられていないが興味深いトピックがまだあるのだがさすがに書きすぎたので控えておきます。
代わりに登場人物の相関のようなものを最後にまとめようと思います。
『木野』の登場人物
●謎の女: (黒いワンピースの上に紺色のカーディガン)
性的に誘ってくる謎の女。背中には煙草を押し付けられた跡。
木野も妻を傷つけていたかもしれない。
精神的には傷つけていたかもしれないし、夢の中のことや自分が直接関与していないこと、想像の中でも「責任は始まる」とよく書かれており。自分が傷つけているわけでなくてもその暴力の可能性が凶事の始まりと関連しているように思いました.
●木野の妻: (青いワンピース)
謎の女も妻の姿を変えた存在、のように捉えられるかも。
『ねじまき鳥と火曜日の女達』でも性的に誘ってくる電話の女は妻そのものでは?というテーマがあったがプロットは似ている。
●猫:よきもの/BARに幸運を運ぶ
●蛇:悪いもの? 両義的な存在。
猫がいなくなり蛇が登場する。もしかしたら猫は蛇、蛇は猫。おなじもの?
とくに根拠はないけどそんなことを思いました。
●暴力的なふたり
ハードボイルドワンダーランドに出てくる2人組を彷彿とさせますよね。
声をかけるまで「男が意外と巨漢であることに気付かなかった」とあるが、相撲取りほど大きいことに話しかけるまで気付かないなんてことがあるだろうか? というのが個人的に引っかかった。
ある時点を境に暴力的で粗暴なものにムクムクムクと”変容”したイメージがありました。
●神田:柳の木 彼も両義的な存在。 メモに「ナカタさん」とありました。
また、蛇については
褐色(茶)で長いもの=暴力的なふたり
青みがありぬめりがある蛇=火傷の女・そして妻
と対応しているようです。
黒くて短い蛇は「もっとも危険」と感じられているが実際には目にしていなく「弾けとぶように消えた」そう。 これはこれから起こる災厄の象徴のようなもので、しいて言うと連れの男を指しているのでは?という意見が出ました。
さて、長くなりましたが以上です。
とても刺激的で、話し合うことでたくさんの発見があった、今までの中でも渾身の読書会だったように思います。
今回は楽しい街歩きを先にまわし、天気のよい日比谷公園を巡り日比谷〜有楽町あたりをぐるりぐるりと歩き回ったあと、なりゆきで立ち寄った丸の内の「KITTE」の中にあったマルノウチリーディングスタイルとというお店でゆっくり話しました♪
とても落ちついたよい店でした♪
しかし日比谷公園から始まって丸の内までよく歩いたものです^^
ー丸の内で差し込んだ斜陽
最後に東京駅の夜景を見たり
思えば街歩きから始まって長い時間を過ごしました^^
街歩きのことはまた別途トピックを立てるかもです。
次回は何を話すか未定!
うまくいくと新メンバーを誘えるかも、な第5回です。
第三回『女のいない男たち』 Side-M
第二回、神保町「ねじまき鳥と火曜日の女たち」での記事が未アップですが、第三回、千駄ヶ谷「女のいない男たち」記事をagesよりお届けします。
これまでは、読書会→街歩きという流れでしたが、今回は、街歩き→読書会。
ぶらり千駄ヶ谷
千駄ヶ谷と言えば、ファンの間では、村上春樹氏がジャズ喫茶「ピーターキャット」をやっていた町としてお馴染みです。ピーターキャット跡地は今はワインバルとなっています。
他にも少し足を伸ばすとフランス革命と同じ頃に作られたという富士塚があります。この富士塚、登ると富士山に登ったのと同じご利益がある、ということで江戸時代の町の人の富士山信仰ぶりが偲ばれます。「富士山から溶岩を持ってきて山を作ったのだから、実質富士山」という合理的なんだかやけくそなんだかの理屈はともかく「信仰する」という誠実、敬虔な行為に含まれる虚構性を感じたり感じなかったり。(このくだり読書会の本編と関わります)
登ってみると、なにやら熱心な表情で向き合っている少年たちの姿がビルの中に見えてきました。
日本将棋会館です。「三月のライオン」の零くんみたいな利発そうなメガネボーイズが出入りしてました。
富士塚のある神社境内には将棋が強くなるという礼拝堂に将棋の駒の形の絵馬がたくさん奉納されている場所もあり(中には将棋の駒に「サッカー選手になりたい」というイノベーティブな決意をしてる子もいたりして日本の未来を明るく感じました)将棋に興味のある方にはおすすめの散策エリアだと思います。
その後「幻冬舎はここにあったのか~」というサプライズもあったりしつつ(本好きだと版元を見つけると嬉しいものです)千駄ヶ谷散策を終え、腰を落ち着けて読書会開始です。
いちばん早い読書会、たぶん
今回はその前日に待望の新刊短編集発売、ということで「発売開始直後のいちばん早い読書会、たぶん」としての開催でした。
古い作品だと、参加者それぞれがその作品と過ごした時間の長さがマチマチになりますが、発表直後であれば、揃う。そういう中での読み解きの面白さがあるのかもしれないね、と。
この作品を一言でいうと? (冒頭陳述)
4回目にしてほんのりこの読書会のスタイルが見えてきつつありますが、会の口火は読んできたそれぞれの人がまず今回の作品をどう捉えたか、を言い合うところから。
ages:「理想、指針を失くした世界をそれでも生き続けるということ」
あっきー :「宝物」
なかたに :「初恋」
ニーチェが「神は死んだ」と言ってからこちらの世界をどう生きるのかというのがポストモダン思想で、村上春樹さんの作品はポストモダンだと思っているのですが、今作もそうした例えば「経済的成長がある、明日は今日より必ずいい日」という信頼が持てない世界をそれでも生きていくということがどういうことなのか、が書かれているようにワタクシ感じた次第。
そんな中、生まれた時から低成長世代のあっきーさんからは「そもそも自分にはその喪失体験がない」という話が出ます。
失ったかもしれない、でも手元には半分こした消しゴムが残っている。失っていても、失われていなくても依然として宝物であるものについて書かれている、と。
たしかに~
が、この話が、若い頃の宝物を後生大事にしていることの純粋さとそれで周りが見えなくなってしまうことの駄目さ≒「こじらせ男子」という話へ展開していきます。
こじらせ男子
今回の短編集に収録されている「独立器官」に宝物(ファンタジック、ファナティックな恋愛)を大事にしてたらその人からひどく裏切られて餓死する人がでてきます。
「恋は盲目」とよく言いますが、恋すると周囲の事物はもちろんひどい場合には肝心の相手さえも見えなくなることがままあります。
この話は読書会ではしそびれたのですが、先日ラーメン屋さんで隣の人の話を聞くともなく聞いていたら「課長さんがすごくかっこいいんだけど、左手の薬指に指輪してるんだよね、、、でも最近は近寄ってくる女の人除けで指輪してる人もいるって話だから私にもチャンスあるよね」的なことを言ってる友だちがいて、、、みたいな話が聞こえてきました。
。。。盲目、というか自分に都合のいいように世界を見がちですよね。恋って綺麗だけど危険が危ない!
本短編集にもこうした恋する対象を見失った強すぎる恋心(「恋煩い」)の顛末が様々に描写されているように思いました。
それでもロマンティックは止まらない
例えこじらせたとしても例えば「独立器官」では
しかし同時に、自らの存在をゼロに近づけてしまいたいと望むほど深く一人の女性を――それがどんな女性であったかはさておき――彼が愛せたということを僕はある意味、羨ましく思わなくもない。
などと結果はさておきほとんど忘我の境地にあること自体は肯定的に捉えてもいます。「恋なんて所詮、、、」と上から目線で達観してみせた所で、というのはありますよね。きっと。
しかしロマンティックは蜃気楼かもしれない
だけど、どのような熱情もある時、不意に醒めてしまうことがあります。
本短編集に収録されている「シェエラザード」にも
あるときにはとんでもなく輝かしく絶対的に思えたものが、それを得るためには一切を捨ててもいいとまで思えたものが、しばらく時間が経つと、あるいは少し角度を変えて眺めると、驚くほど色褪せて見えることがある。私の眼はいったい何を見ていたんだろうと、わけがわからなくなってしまう。
というくだりがあります。
当人にとっては大変な熱情が、別の視点から見るとなんだかよくわからないものに見えてしまうこと。
それは例えば「回転木馬のデッドヒート」という状況もそのように言えると思うし、物理の(そう、物理でした)角速度ωで定義される運動※が、波のように続いていくのかと思いきや同じ場所をぐるぐるしてた的な状況にも似ているかも知れません。
※こちらのページでいろいろ思い出しました。わかりやすいページをありがとうございます。
http://www.wakariyasui.sakura.ne.jp/b2/53/5331tannsinn.html
三角関係構造
村上作品には二人の男性と一人の女性、という構図が目立つという話も出ました。
女性の法的なパートナーでない男性と女性のいわゆる不倫構造の中で表立った嫉妬があまり描かれない。どころか「女のいない男たち」では
世界でいちばん孤独な男は、やはり彼女の夫に違いない。僕はその席を彼のために残しておく。(中略)彼は水夫なのだろうか?それとも水夫に対抗するものなのだろうか?もし後者であるとすれば、彼は僕の同胞の一人ということになる。もし前者であるとすれば……それでもやはり僕は彼に同情する。彼のために何かができればいいのだが、と思う。
と気遣ってみせるのです。
が、個人的にはこの妙な上から目線からくる態度は表立って嫉妬を見せない素直でない自意識過剰な態度だと思います。本来嫉妬してしまう対象を気遣ってみせることで自分を優位に立たせる態度だと。
こういうところで他人や自分を意識的にあるいは無意識的に誤魔化してしまうことが事態を悪化させることは往々にあるわけで。
一方で素直でいることはそう簡単なことでもないことも知っているのですが。
ネグレクトという暴力
「ねじまき鳥と火曜日の女たち」で
「あなたが殺したのよ」と妻は言った。
(中略)
でも僕はあの猫をいじめたこともないし、毎日ちゃんと飯をやってた。僕が飯をやってたんだよ。とくに好きじゃないからって、僕が猫を殺したことにはならない。そんなことを言い出したら、世界の大部分の人間は僕が殺したことになる」
「あなたってそういう人なのよ」と妻は言った。「いつもいつもそうよ。自分では手を下さずにいろんなものを殺していくのよ」
というくだりがあります。ぼんやりしがちな僕なんかは、ぎくりとしてしまいます。
「女のいない男たち」でも
そのようにして、彼女はこれまで僕がつきあった女性たちの中で、自死の道を選んだ三人目となった。考えてみれば、いや、むろんいちいち考えるまでもなく、ずいぶんな致死率だ。僕にはとても信じられない。だいたい僕はそれほど数多くの女性と交際してきたわけではないのだから。なぜ彼女たちが若くして、そんなに次々に自らの命を絶っていくのか、絶っていかなくてはならなかったのか、まったく理解できない。それが僕のせいでなければいいと思う。そこに僕が関与していなければいいと思う。あるいは彼女たちが僕を目撃者として、記録者として想定したりしていなければいいと思う。心から本当にそう思う。
とまぁ、清々しいまでの知らんぷりぶりです。
ほとんどの場合(ご存じのように)、彼女を連れて行ってしまうのは奸智に長けた水夫たちだ。彼らは言葉巧みに女たちを誘い、マルセイユだか象牙海岸だかに手早く連れ去る。それに対して僕らにはほとんどなすすべはない。あるいは水夫たちと関わりなく、彼女たちは自分の命を絶つかもしれない。それについても、僕らにはほとんどなすすべはない。水夫たちにさえなすすべはない。
水夫は世界の「暴力」の象徴だと思っています。
水夫に彼女が拐かされてしまった、、、と悲嘆にくれる主人公ですが、彼女の夫にしてみれば主人公こそが水夫です。
直接的な見える「暴力」を振るうだけでなく、世界の中で誰も誰かに「暴力」を振るっている可能性。(たとえば、熱帯雨林のプランテーションで栽培された植物で生産された製品を購入することだって広義の「暴力」と言えるかもしれません。そういうことを「ねじまき鳥~」で非難されているのだろうな、と思うのです)
「電話」(タグトピック)
前回読んだ「ねじまき鳥と火曜日の女たち」の終わりでは
ビールを半分ばかり飲んだところで電話のベルが鳴りはじめた。
「出てくれよ」と僕は居間の暗闇に向かってどなった。
「嫌よ。あなたが出てよ」と妻が言った。
「出たくない。」と僕は言った。
答えるもののないままに電話のベルは鳴りつづけた。ベルは暗闇の中に浮かんだちりを鈍くかきまわしていた。僕も妻もそのあいだ一言も口をきかなかった。僕はビールを飲み、妻は声を立てずに泣きつづけていた。僕は二十回までベルの音を数えていたが、それからあとはあきらめて鳴るにまかせた。いつまでもそんなものを数えつづけるわけにはいかないのだ。
と電話の無視し続けていたのだけど今作は冒頭で毅然と電話を取ります。
夜中の一時過ぎに電話がかかってきて、僕を起こす。真夜中の電話のベルはいつも荒々しい。誰かが凶暴な金具を使って世界を壊そうとしているみたいに聞こえる。人類の一員として僕はそれをやめさせなくてはならない。だからベッドを出て居間に行き、受話器を取る。
電話のコールはサイレンです。どこかで誰かが悲鳴をあげているのです。悲鳴に対して、もう、僕たちは、やれやれと傍観を決め込むわけにはいかないのでしょう、たぶん。
*タグトピックとは:
主催者なかたにが、春樹理解のために是非やろうと思ってた春樹の各作品間での共通点などを探る試みだ!
いずれ関連性MAPのようなものをつくりそこから解き明かしができないか目論んでいる。
なお、今回の記事は男性であるagesによる稿Side-Mです。あっきーさんの手に拠ってSide-Fが書かれるかも知れませんし、書かれないかも知れません。
次回予告
次回は「木野」に挑む予定です。木野に相応しい町はどこだろう。神田なんてよいかもしれない。
第二回:『ねじまき鳥と火曜日の女たち』
前回”検索からの来訪者”ことなつみかんさんを加えても非常に楽しく、なんというか高度な思考のやりとりを実現することができ、なんとなく軌道に乗ってきた感のある村上春樹読書会♪
今回も1人新しいメンバーとして幅の広い文学少女アッキーを加え、5人という過去最大メンバーで第二回を開催です!
なんとなく街歩きとセットになってきているこの読書会。
今回は「本の街」を歩こうということで神保町で開催。 お昼間で太陽がさんさんと入ってくる雰囲気のよいハワイアンなカフェMuuMuuDinerで、短編『ねじまき鳥と火曜日の女たち』に挑みました。
*初めて表題作じゃないものに挑むので、まあこうなるよね。
*プレ開催のときに挑んだ『パン屋』の巻末に収められているのが今回の挑戦作『ねじまき鳥』です。
『ねじまき鳥と火曜日の女たち』を選んだのは
名前の通り、長編『ねじまき鳥クロニクル』の元になった作品。
ずっと続けている短編の読み解きを”助走”として、そろそろ長編の読み解きに羽ばたこうとする我々のステップになれば、という想いもあって選びました。
なつみかんさんイチオシの『眠り』をやろうか、という話もあったのですが今回はこちらに。眠りもいつかやろう。メモメモφ(.. )
この作品のテーマとは? (読書会前の各自の意見)
ages:「喪失」
あき:「死角」
なかたに:「致命的な死角」
なつみかん:「無意識的な罪(歴史)と向き合う」
ごとさん:「喪失」
を初期の理解として各人テーマにあげました。
5人がなんとなく3つに分かれた感じでしょうか。なつみさんのが深くて興味深いです。
あらすじ
失業中の「僕」は聞いたことのない声の女からの電話を受け取る。一度切り、その後妻から「詩を書く仕事」を持ちかけられ、”路地”にいなくなった猫を探すよう言われる。その後、再度女からかかってきた電話ではセクシャルな誘いを受けるが僕は取り合わない。女は僕を知っているという。(あなたの頭の中のどこかに致命的な欠陥があるとは思わないの?)
猫を探しに出た僕は古い路地を巡り、羽ばたこうとする鳥の像や犬のいなくなった犬小屋、古い家と新しい家の混在した路地を歩く。サングラスをかけた女子高生に出会い、指が6本ある女の話と、「死の塊」についてのイメージを聞くが結局猫は見つからない。(僕は猫のはっきりした形も思い出せない、ことに気付く) 家に帰ると妻は泣く。「あながた猫を見殺しにしたのよ。自分では手をくださずいろんなものを見殺しにしていくのよ」 再度電話のベルが鳴るが20回までベルを数えたところで、僕はベルを数える事をやめる。 いつまでもそんなものを数えているわけにはいかないのだ。
王道?の 猫探し話です。モチーフとしてのねじまき鳥が短編の中でなおさら色濃く象徴的に登場するのが印象的でした。
・猫の喪失 →たいして探してもないけど一応探す →結局見つからず帰ってくると妻が泣く。
前回に続き、雑に全体をまとめるとこんな流れと言えます。今回もとくにたいしたことは起こっていない。にも関わらず巻末の暗澹たる終わり方。 やはりこのゆるやかなストーリーのどこかに「事件」があったと見るのが妥当かと考えました。
電話のベル
ひとつの事件は「電話のベル」にあったと思います。
電話のベルはサイレンであり警報。
アラームである電話のベルを無視して出なかった事はおそらく失敗で、ここでは妻のSOSが届かなかったことを象徴しているのではないか。
無関心は暴力。 僕がやれやれ、という態度で適当に済ませている事はイコール、いろんなものを見殺しにしている。 (妻が僕に言った「猫はあなたが見殺しにしたのよ)
知らない声の女
Hな誘いの電話をかけてくる謎の女ですが、これも間違いなく妻だと思います。「僕」はこの声を聞いたことがない、と思っているのだけどそれは当てにならない。 僕の頭の中には”致命的な死角”があるからです。
「僕」は笠原メイの家で目をつむった際に、猫の姿形も正確に思い出せないというシーンがあります。 これは「僕」の人間関係への関わり方に致命的な欠陥があり、人とうまく関われていない、愛情を持って接しているはずの猫のことも妻の事も、実はよく理解していないという欠陥についての話。
*実は一緒に暮らしている身近な人についても表面的な理解に留まっていてその人の「本当」をぼくらは実は何も理解していないんじゃないか、という”不気味さ”という点では私は吉田修一の『パレード』を思い返しました。
妻が声をかえて電話でセクシャルな誘いをしてくる、ということは妻の中に抑圧された性への意識があり、その救いというか安直に言うと「誘い」を僕に向けているのだがそれを妻だと気付けず最終的に電話を切ったりベルを無視してしまっているのではないか、と思いました。
妻のセクシャルな誘いを断る夫・・という単純な話ではなく。
性的な部分も含めて人は人だと思うのですが、そういう部分はタブーになっていて日常ではあまり表出してこない、そういう月の裏側のような部分も含めた人間全部を理解する力、理解しようとする意志がこの僕には欠けている?のかと今のところ読んでいます。
路地への迷い込み
この作品はとくに精密に、美しく”路地”について書かれている本だと思う。
路地は正確に路地とも言えない。 かつては道であったがあるとき入り口が塞がれ、呼応して出口も塞がれたことで入口も出口もない、打ち捨てられた土地となっている。
(この表現自体がなんと孤独で象徴的なことか!)
*路地がどういう状態にあったかテーブルで再現する面々(笑)
路地はそのまま「僕」の精神世界を表していると思う。
そこには入口もなく出口もない。誰も入ってこれない。ココに僕の「致命的な死角」というものが存在し、ここで猫は失われてしまった。
印象的なのは妻もその路地で猫を見つけた、と聞いて僕がビックリする箇所。僕にとって路地は自分のためにひっそりと残された場所、妻には隠していたつもりの囲地だったはずがそこに妻も迷い込んでいることに驚く。 妻は僕が思っているよりもずっと自分の闇、死角についても理解をしているということなんじゃないだろうか。
猫とは何か?
各作品によく登場する猫、そしていつも失われている猫。
猫が何の象徴なのか、そういえばまだ答えを持っていない気がします。ワタナベノボルと名付けられた今回の猫はカギしっぽを持っているそうで、カギしっぽの猫とは幸せの象徴なのだそうです。 やはり僕にとって「良きもの」なのだろう。
妻と僕をつなぐものであり、ふたりが(一応)共通して愛しているものとして、月並みですが妻と僕をつなぐ”愛”のようなもの?なのかなと思いました。 失われると非常に困るもの、探すことがテーマに成りうる大切なもの、「あなたが見殺しにした」と妻が泣く対象、、も一旦”愛”であると置くとちょっと腑に落ちます。 (ここは私見だし、私見としてもまだ”保留”な答えです)
ねじまき鳥とは何か?
ねじまき鳥は世界のねじを巻いている鳥。彼がねじを巻く事で僕(と妻)の世界も現実的に回っていたのだと思いますが、このねじまき鳥も今僕や猫のねじを巻いていない。
そして世界がうまく回っていない。
また、なつみかんさんは「ねじまき鳥を資本主義側の象徴と捉えてみると・・」と感想で書いていました。 「ネジを巻く」ってそいういえば資本主義的ですよね。チャップリンの映画のような。主人公も法律業界から失業しているし、再び現実的でマッチョな世界の論理から外れている存在と言えるかもしれないです。
▼ねじまき鳥はどんな形か?について身振りを交えて議論する面々(笑
結論。 (とはいえ未完なこの話)
結局、猫がいなくなってしまったのだがそれは僕の精神に致命的な死角があり、その精神の象徴たる路地の中でいなくなっている。 妻も指摘したようにきっと「僕のせい」で猫はいなくなってしまった。または見殺しにされてしまった。
僕は知らないところで多くのものを見殺しにしている。 ひどく疲れて不幸に見える妻もまた、「まさに今」失われようとしている存在だ。
妻は姿を変え声を変え、僕に助けを求め電話のベルを鳴らす。が主人公は電話を取らない。20回までベルの音を数えるが20回をすぎたところで数える事もやめてしまう。
いつまでもそんなものを数えつづけるわけにはいかないのだ。
この結末はポジティブかネガティブか?
最後に、この結末はポジかネガか?を話し合いました。
まず出た話として、この『ねじまき鳥と火曜日の女たち』は後の『クロニクル』へと続く序章的短編なので、やはり完結していないだろうという意見。
その上で、「数えることはやめた」というのは明確で割り切った意志を感じ、ここから次の場所へ進もうという意志の表れとしてスタートを切ったと見た人もいました。
逆にやはり電話のベルには出なかったのでネガであろうという意見も多かったです。
またベルを「無視」したので、電話を受ける(ポジ)でも明確に断ち切る(ネガ)でもなく、単に「無関心」を決め込むという最も救いのない危険な選択肢を取ってしまったのではないかという意見も出しました。ガンジーが言った「好きの反対は嫌いではなく、無関心である」という例えを共有しました。
路地(タグトピック)
前回の『神の子どもたちはみな踊る』でも路地が出てきたが、今回はカギ括弧つきの「路地」として明確な象徴として登場している。とくに強い夏の陽射しのもと、葉の影が落ちるシーンを描写しつつ入っていく路地へのシーンは「路地=自己の精神世界」に迷い込んでいく構造を他と比べてもとびきり印象強く、美しく描ききった作品だと個人的に感じています。(p204)
「肝臓のような色のソファ」 が出てくるのも身体的な内側への示唆。内蔵=身体の中にある迷宮。
路地の側には古い家と新しい家が混在している。古い記憶と新しい記憶の混在。とりわけ古い記憶が、今もそこに眠っているという象徴。 少年時代の記憶をぶちまけたみたいな庭。(記憶が貯蔵されている、というのは『世界の終わり(とハードボイルドワンダーランド)』の図書館を彷彿とさせる)
死とのつながり
結局、この僕の中にある「致命的な死角」というのは先天的なものなのか、後天的なものなのかという議論をしました。 『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』でも脳の構造が特殊であるため精神世界の中に特殊な『壁』を持っている主人公が出てきますし、村上春樹の根源的なテーマだと思うのですが、なぜ僕は(春樹は)これほど宿命的な呪いを持たなければいけなかったのか。(先天的だとすると可哀想。)
それに対しての答えにはならないのですが、「死とのつながり」が関係するのでは?とみんなと話していてふと思いました。 初期作品を中心にいろんなところで、(壁一枚を隔てて)自分は死とつながっている」という感覚があると感じます。死とつながっている、というのをどういうことか掴みかねていたのですが、「人はいつか死ぬ」「終わりがある」ということを前提に生きることを真面目に捉えたときの矛盾、虚無感、が人生観に色濃く影を落としているのではないか?と話しました。
笠原メイ(女子高生)がする「死の塊」の話もそれにつながっている。
死のコアである部分がすべてに関わっている、それをむき出していきたいというある種グロテスクな欲求。
逆にそれを無視して生きる気楽な生き方をどこか春樹は軽蔑ししつつ羨んでいて、マッチョな現実的な生き方とし、「やれやれ」と思ってしまう自分の非現実の考え方と対比しているのではないか。
*哲学で言うハイデガーの「頽落(たいらく)」
指が6本の女(タグトピック)
笠原メイが指が6本ある女の子の話をする。あるいはメイ自体がその人であるかと思われる。短編の中では割と意味が見いだしにくいが、『色彩』などにも出てくるよく出るモチーフ。 6本目の指はいつも切られてしまう、5本指の秩序のために切られる、無自覚に切ってしまったもの、ではないか?
火曜日の女
火曜 =火(マルス)の意味か?
現実と戦う女性。マッチョな現実側?に属している。 センチネル(歩哨)
(どういう文脈で出てきたか忘れてしまったので、メモ・・)
議論後の「この話のテーマ」
今回は、事前(読書会の前)と事後(話した後)の両方で上げてもらいました。
なかたに:「呪い」(←「致命的な死角」)
ages :「現代社会が喪失したもの〜その死角について〜」(←喪失)
あき :「他社のつながり」(←死角)
ごとさん:「欠損」 (←喪失)
なつみかん:「無理解」(←無意識的な罪と向き合う)
いかがでしょう? 結構変わった人もいたり、ブレない人もいたり^^
興味深い取り組みでした
以上です!
すみません、書くまでに時間が経ってしまい鮮烈な記憶が薄まったのかうまく書けなかった気もします。
でも今回は今までで最長かな、軽く4時間ほどは話しまして昼ごはん食べてから話して終わったときには日が傾くような時間でした。 後半のどろっとした話の密度もすごかったし、とても驚きのあるような濃密な時間を過ごす事ができました。
お店はココ! 神保町<ムウムウダイナー>
お店にある天井裏で読んでました♪
高度な思考交換を終え糖分を補給する女子たち
(アッキー読書会へようこそ!)
次回は、春樹ゆかりの街千駄ヶ谷で。前日に出たばかりとなる新刊『女のいない男たち』を読む予定です!
第一回『神の子どもたちはみな踊る』
村上春樹・読書会。
堂々の第一回、西荻窪でスタートです!
Facebookでこの読書会を公開設定にしていたことが功を奏し、なんと検索から見つけて参加してくれた初参加にして強力な仲間「なつみかんさん」が参加して第一回を開催。
四人で『神の子どもたちはみな踊る』表題作に挑みました。
なぜ『神の子どもたちはみな踊る』にしたか?
前回の「パン屋再襲撃」で、春樹の特定の思想や体制に対してのスタンスがテーマに上がり、ごとさんより「(実は)資本主義に対してもことさら批判的でもなく、そう見られるのを嫌っているところがあるのでは?」という話が出て。
宗教観についても話があがったので宗教に向かい合っているように見える本作がテーマとなりました。
(マジメにやってるなぁ、この読書会。。w)
この作品のテーマとは? (読書会前の各自の意見)
Agesさん:「再生」
なつみかん:「自分を受け入れる」
なかたに :「神との距離(距離感)」
ごとさん :「解放」 (または悟り)
あらすじ
「完璧な避妊」をしていたにも関わらず生まれた大崎善也は、父がいないことで「お方さま」(母が傾倒してる宗教でいう「神」)の子どもとされ育つ。 ある時、父親(の可能性がある男)に似た男を見かけ追跡するが、夜の野球場で見失う。
父は結局消えてしまうが、その追跡と出会ったことを通してカタルシスが得られ、これまでこだわっていたことが氷解。夜の野球場でひとり踊り自分の中の「森」と向き合う。
『神の子どもたちはみな踊る』をこう読みました。
*今回はなかたに主観はありますが、みんなで話した内容をまとめてます。
自分と向き合い受け入れることを通じての「解放」の物語だと思います。
父がいないこと、母がうら若くエキセントリックでそんな母に性的な憧れを持っていることなど、自分の中に「邪(よこしま)」な部分を感じ抱えていた善也が、父(=神)との瞬時の邂逅という奇蹟・秘蹟を経て、自分の内面と向き合い、受け入れ自分を「解放」できるようになる。
そういう「解放」「成長」「再生」の物語。
*なので、読み味というか読後感はスカっとしているというかハッピーエンドに近い珍しい話だと思った。
この話の「転」はどこか?(何だったか?)
起承転結でいう「転」はどこにあったのか?と考え、話しました。
①最初:なやんでるし、破滅的な二日酔い(混乱)の中から起き上がる
②何かの「転」があり、
③最後:問題が解決されている。
(または、解決ではないが昇華され、問題が問題ではなくなる)
ものすごく単純化するとこういうプロットなので、②で何が善也の状況を好転させたのか?(実際にはたいしたことは起こってない)
を考えてみました。
父との邂逅
もちろん答えは父を「見かけ、追跡し、見失う一連」にある。
父を見かけ後をつけるが結局は、(まさに)神秘的に消えてしまう父に会うことはできなかった。
ただ、暗い闇の中で路地のようなところ(*1)を通り抜け、野球場に抜けたという一連に「質の変化」を思わせる何かが隠されているのだと思う。
追跡し、見失い、自分がより深い暗闇の中に放ったのだ、という自覚が善也を解放している(悟り)。人の内部から起こる変化。
顕現と秘跡
ーそこにはひとつの顕現があり、秘跡があったのだ。誉むべきかな (p106・善也のことば)
「路地」(タグトピック)
「路地」は『ねじまき鳥と火曜日の女たち』にも登場する。
ねじまきの路地は「かつでは通路だったが入口と出口が封鎖された場所。
見捨てられた場所、往来から取り残された場所であり、「どこにも出口がない」象徴として使われる。 またその条件から路地は特別な場所であり、ここを「くぐり抜ける」ことで精神世界の奥を通り抜けるようなプロットになっているのではないか。
*タグトピックとは:
主催者なかたにが、春樹理解のために是非やろうと思ってた春樹の各作品間での共通点などを探る試みだ!
いずれ関連性MAPのようなものをつくりそこから解き明かしができないか目論んでいる。
森の比喩(*2)
p109 ー様々な動物がだまし絵のように森の中にひそんでいた。中には見たこともないような恐ろしげな獣も混じっていた。(中略)でも恐怖はなかった。だってそれは僕自身の中にある森なのだ。僕自身をかたちづくっている森なのだ。僕自身が抱えている獣なのだ。
森=自己の内面であり、それと向き合うことで闇をくぐり抜けている。
2 『海辺のカフカ』 古い兵隊のいる森。
カフカにはとくに似たプロットで、森=内面という語りがある。
もっとさまざまな作品に共通している、春樹の根幹を成すテーマだと思う。
テーマとしての「解放」「自己受容」
ココに、みんなが最初のテーマに上げた「解放」「悟り」「再生」「自己の受け入れ」が集約されている。
善也の中にも邪なものがあり、相容れないものがあったが、ありのままを受け入れるという成長(復活)の物語。
善と悪性の共存。 いわゆる「清濁併呑」での浄化。
ココでの解決は、「問題の解決」ではなく「解放」である。
ー最初にこだわっていた問題について、「全体がどうでもいい、と思えるときがある」
という表現がある。
最初にこだわっていた「父の発見」(父の不在という問題)について、父親に会うということは最初善也にとっては命を左右するような問題だった。 だが、それが(父の追跡と路地の通過と父の霧消によって)「どうでもいいこと」に昇華される、ことが注目すべきところだと思いました。
「メタ解決」というか。
問題は解決していないが、成長?することによって自分を受け入れ、その事自体が「どうでもよくなる」という「救い」がある。
*確かに。
社会人やってても問題の解決ってだいたいそうだよね、って話をしました。
問題が解決すること、は稀でそれをもっと上の視点から眺められるようになるのが成長。的な。
========================================結論(ぽいもの)
村上春樹の「宗教」へのスタンス
一部の特定宗教や新興宗教にたいしてはネガティブ、忌み嫌っている。「やれやれ」というスタンス。(とくに初期)
ただ、もっと大きな意味での大宗教に対する「信仰」に対しての賛美はあるのではないか?
父と母(親)に対してのスタンス (春樹自身の家庭観)
父母の関係。
今回の善也については、父が不在。 母も母なる存在としては不在。
*初期にはよく「スポイル」(台無しにする)という言葉が使われ、親が親の責任を果たさないことで子は「スポイル」されると書かれていて、春樹はそこに大きな怒りを持っているように思う。
(ココ、何かあるとなかたには思ってて掘っていきたい)
*実際、本人はどうなんだっけ? (村上春樹自身の背景)
父は国語教師? (両親とも?)祖父が僧侶で父はかなり厳格だった。
親との関係は、1Q84では強い。
初期は親のことはまったく登場しなかったのが中期から変化が見られる。
*蜂蜜パイのラストシーンの「変化」はすごい。
==========以下、比喩や象徴、ほか作品との関連性について。
主人公の名前:善也=ヨシュア
「善也」はヨシュア、つまりイエスキリストの暗喩(というか体現)であり、
同時に、「善きもの」として期待されている。
*ヨシュアは新約聖書で言うイエスキリストのことであり、「神は救う」という意味である。 http://www.dr-luke.org/Characters/Joshua.html
善也が神の顕現である、とかを言いたいのではなく。宗教的な傾倒がある母から神の子として強烈な期待、まなざしで母から見られているという点が重要か。
「山手線」の比喩
作品中、1回しか出てこないが善也の姓はじつは「大崎」。
登場人物の田端さんとともに山手線の駅名である。
山手線で終点として使われる「田端」と、始点としての「大崎」おなじ輪の中にある。 始点と終点の比喩だ。
*なつみかんさんの指摘により発見。
これ・・・「すごい」と思いました。なつみかんがさんいなかったら発見できなかったし、なんか個人的には「名刺代わりの一発(ホームラン)」と思い感動してました!
円形は再生のシンボル?(なつみかんさん追記)
田端さんと大崎の山手線=円形は再生のシンボルとして使われているのかも。
ピッチャーズマウンドも円ではないけれど、始点と終点が終わり、と考えれば円の変形なのかも? (春樹さんは甘いもの嫌いだけど唯一ドーナツが好きで、形が良いとも言ってますね)
*マウンドというよりは野球場全体、ダイアモンド(ホームベースから1~3塁~ホームベース)を円のたとえとしているのかもですね。(なかたに)
序盤の「非現実」の暗喩
物語の冒頭は、破滅的な二日酔いから起き上がる様子から。
これはそのまま、そこから始まる「再生/復活」を暗示している。
・時計がなくなっている→「時間」が失われている。
・眼鏡がなくなっている→「距離」が失われている。
→「非現実」
*物語の序盤から「非現実」モードにあることの象徴か。
長編ではもっと噛み砕いて非現実(夢)への導入があるところを短編ならではの略か
関連:「眠り」でも時計がなくなった状態でおきる様子が似ている。
また同じ本の連作「かえるくん東京を救う」で最後爆発して失われてしまう「かえるくん」の復活、としてつながっているのではないか。
*善也も長い手足を不器用にふって踊るさまから彼女に「かえるくん」と呼ばれている。
◎p82(冒頭)の 物干し竿
ふるいものほし竿を新品に交換してくれる、というもの続く「再生/復活」の暗示と言える。 「20年前と同じ値段」→善也の生まれた20年前を示唆?
◎なぜ「野球場」だったのか?
「外野フライ」を取れるようになりたかった、のが善也の幼少期の悩みだった。
典型的な父性への憧れか。 父親の不在に対する喪失感。
その流れで案内される『野球場」では? (父はいないんだけど)
◎ラストダンス (ラストのほうのダンス) (*3)
ダンス、大きなもの、地面の律動や自然の音に身をまかせるという行為か。(大地の音に身を任せる、という表現が実際にある) 原始的なダンスは宗教と親密。
ー神の子どもたちはみな踊るのです。
3 ダンス
『ダンスダンスダンス』 音楽に合わせて精一杯うまく踊るんだよ。
『スプートニクの恋人』でも宗教的、祝祭的な音楽との出会いとその後のカタルシスが描かれている。
ー以上。
西荻窪のカフェ「三人灯(サンニントウ)」で4人で行いました。
適度な静かさ/ほの明るい感じ/落ちつく空間 、、すべてが揃っていて最高の読書会カフェでした!
次回は本の街・神保町から、『ねじまき鳥と火曜日の女たち』に挑む予定です~!
村上ハテブロをオープンしました♪
村上春樹の読書会ブログ
読書会の記録とか残していきたいと思います。